木村宣彰

今日、私たちが「自然」と言う場合、山川草木や雨や風など、人間を取り巻く外的な環境のことを指す。そのような自然環境は人間に対立するものであり、自分たちに都合のよいように改造できるものと考えてきた。その結果、地球の温暖化や砂漠化、水や大気の汚染などの様々な問題を惹起した。どれもこれも人間の我が儘が原因である。人間は自然を支配しようとするが、自然は人間の支配の対象ではない。 仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。 明治以降、西洋語のネイチャー(nature)の翻訳語として「自然」が用いられる。この自然は人間と対置するものとされる。しかし仏教が説いているように、人間は自然を超えた存在ではなく自然の一部である。その人間が思い上がって科学技術を駆使して自然を破壊する。一方で、意匠を凝らした盆栽や日本庭園に人工の自然を見いだそうとしているのは、何と考えたらよいのだろうか。